2024/09/06 11:08

この絵は、重谷一甫(おもたにはじめ)さんが描いた創造絵です。 昔の石見銀山の街、観光名所、坑道(間歩:まぶ)の様子が、かわいいキャラクター(まるちゃん)の動きにより命を吹き込まれ、楽しく賑やかな石見銀山の街が再現されました。それでは、少し当時の様子をご説明しましょう

坑道(間歩)入り口:

① 坑道(間歩入り口まぶ)にまるちゃんが螺灯をもって入ろうとしています。
石見銀山ではサザエの殻に油を入れる「螺灯(らとう)」をもって坑道に入ります。
ちなみに、大田市の ゆるきゃらは、螺灯をモデルにした「らとちゃん」といいます。


坑道:

② 銀鉱石を手掘り作業しています。鉱脈に沿って多くの坑道を掘って進んでいます。

③ この装置は空気を送り込むもので、唐箕といいます。

④ 坑道に湧き出た水を排出しています。これも大切な仕事なんです。

⑤ 坑道でマスクをしているまるちゃんわかりますか?
なんと、日本最古のマスク(福面)は石見銀山で採掘にあたった人々の健康を守るために開発されたのです。


地上部:

⑥ ここは16世紀に銀の積み出し港として栄えた温泉津港です。港からはさまざまな物資が搬入されて石見銀山に住む人の生活を支えていました。牛の背に荷物を積んで街に運んでいますね。

⑦ 畑では、サツマ芋を栽培しているまるちゃんがいます。一生懸命水やりをしています。サツマ芋を導入した江戸時代の、石見銀山の代官(井戸平左衛門)はいまでも地元の飢饉をサツマ芋で救った偉大な代官として尊敬されています。

⑧ 五百羅漢です。石見銀山に働き亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために、25年かけて代官や代官所役人、領内の人々の援助、協力により石橋などを築き、石窟内に石造の五百羅漢を納め羅漢寺は1764年に建立されました。
岩盤斜面に3つの石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟には五百羅漢像がそれぞれ250体ずつ、計501体の坐像が安置されています。
石見銀山は五百羅漢に見守られてきたのです。

⑨ 多くのまるちゃんが洗い物をしていますが、これはくだいた銀鉱石を水でゆすって、より重く銀が含まれるものをゆり分けています。

⑩「灰吹法」により純度の高い銀をとりだしています。
灰吹法とは、銀と鉛の合金(貴鉛)を灰の上で加熱すると融点の低い鉛が解けて灰に沈み、灰の上に銀(灰吹銀)が残る。これを何度か繰り返して銀の純度を上げていく方法です。
石見銀山から佐渡の金山などへ拡まっていきました。日本の鉱山技術は石見銀山からはじまったとも言えるでしょう。


街の様子:

⑩ 一番栄えていた16世紀終わりから17世紀の初めの銀山の街には、伝承ですが20万人もいたともいわれています。
道では魚売りが行き交い、子供たちが楽しく遊んでいます。
いろんな場所でまるちゃんが遊んでいます。当時の賑わいと活気が伝わってきます。
お屋敷では、サツマイモ汁をつくり、子供たちにふるまっています。
その後ろでは干し大根をつくっています。庭で植木に水をやるものもいます。
お屋敷の主(あるじ)は居間でお茶を飲んで庭の様子を楽しそうにみていますね。



いかがでしたか!

地元に住む方も観光に来られた方も、見てワクワクする絵ではありませんか。この絵を

きっかけに、もっと石見銀山のことを知りたい!と思っていただけたら幸いです。


大田市応援隊 隊長 森山宏二